【エッセイ】ジャズの習得と「守破離」

自分の世界を創りたいという衝動から、私の音楽の旅は始まった。

自分の世界を創りたいという衝動から、私の音楽の旅は始まった。その表現を形にする中でジャズという言語と出会い、その言語で自由に語れるようにするためにこれまで積み重ねてきた。その過程で気づいたのは、ジャズを学ぶプロセスが、武道や茶道で言われる「守破離」によく似ているということだ。自由に音を紡いでいるように見えるジャズにも、その自由に至るまでのプロセスがある。

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「守」とは、先人が築いたジャズの語法をていねいにコピーし、自分の中に「型」を育てることだ。

コードへのアプローチやリズムのフィールは、ジャズを演奏する上でも欠かせない共通言語になる。この土台をすっとばして自分らしさを求めても、どこか浅い音になってしまう。ジャズという言語を自在に操るには、まず型を徹底的に身体へ刻み込む必要がある。

「守」で身につけたフレーズや理論を、少しずつ自分なりに組み替え、崩していくのが「破」の段階だ。覚えたフレーズをそのまま弾くのではなく、あえてリズムをずらしてみたり、ハーモニーに独自の緊張感を加えてみたりする。

私にとっては、北欧ジャズの透明感や余白、現代的なアプローチを追いかけることが、まさにその延長線上にある。先人の築いてくれた土台の上に、自分が美しい、面白いと感じるエッセンスを少しずつ重ねていく。その試行錯誤が、表現の幅をじわじわと広げてくれる。「破」は逸脱ではなく、変奏だ。

そしてその先に、すべてを忘れてただ自分の音を鳴らす「離」の瞬間が訪れる。

頭でフレーズを「ひねり出す」のではなく、次から次へとメロディが自然と湧き上がってくる。学んできたことがすべて身体に馴染み、もはや意識する必要がなくなる。行為と意識が一体になり、自分がどこまでで音楽がどこからなのか、その境界が溶けていく。「守」と「破」で積み上げてきたものが、ここで初めて姿を消し、音だけが残る。

でも、「離」を経験したからといって、そこがゴールではない。自由な境地を味わった後こそ、また「守」に戻り、基礎をていねいに磨き直す。

一度「離」を経験した後に向き合うフレーズやハーモニー、リズムは、以前とはまったく違って見える。一音の重み、タッチの明瞭さ、休符の深さ──かつては気に留めなかった細部が、くっきりと見えてくる。「音の解像度」が上がる。守破離は一本道ではなく、螺旋だ。同じ場所に戻るたびに、一段高い場所から景色が見えている。

オリジナリティーとは、奇をてらうことではない。
徹底的に学び、模倣し、自分を削ぎ落としていった先に、どうしても消えずに残ってしまったもの。

それは結局、最初にあった「自分の世界を創りたい」という衝動そのものだったのだと思う。

2026年07月06日 | Posted in 【エッセイ】私の考え | | Comments Closed 

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